【第1話】 再生。シャトー・シトランのプロローグ             

 汗がだくだくと流れている。誰が書いた本の中だったか「汗水が塩気を含んでいるうちが苦しいがそれがただの水のようになってくると身体が軽くなってくる」

 1987年の7月、猛烈な暑さの下、瓦礫、砂の土壌からの熱の跳ね返りを受けながら、私は毎日のようにシャトー・シトランの畑を歩き回った。「全然軽くならないな」と思いながら。  

 当時シトランの畠面積は80ヘクタール(24万坪)手入れを長い間怠っていたため、ぶどう畑の状況は非常に悪かった。ブドウの木は乱雑に十方へ飛び出し、枯れている木、何も残っていない場所など、完全な状況把握をする必要があった。「1万株ぐらいなら1カ月前に注文してくれれば揃えられますが、新しい植えつけに10万株以上、補足植えつけに8万株などというのは最低でも半年前には注文していただけなければ不可能です。しかもカベルネで4種類、メルロで3種類のクローンを揃えるなど、各クローンの具体的本数を言っていただけなければできません。」というぶどう苗木栽培者からの要請が一番強かった。

 「フィロキセラという病気のことは知っているでしょう?」18世紀に発生した伝染病でボルドーのぶどう畑はほとんど全滅した。「我々がこれから創っていくぶどう畑は、どんなことがあってもこのような災害から逃れられるようにしておく必要がある。そのためには色々な種類のクローンを植えましょう」技術責任者として6月に雇い入れたジャン・ミッシェル・フェランデーズはそう言った。ブドウの苗木は所属するクローンによって色々な病原菌にたいする抵抗力が違う。「だからそのように苗木を植えていけば部分的なダメージは受けても全滅することはない。」  

 選んだクローンをどの場所にどれくらい植えつけるのか、新規植えつけ面積4ヘクタールを加え、84ヘクタールをフェランデーズ、助手のガストンと三つに分担して歩いた。ぶどう畑というのは長い廊下を行ったり来たり歩いているようなもので斜めに縦断するわけにはいかない。この7月から8月にかけ、私の体重は3キロ減った。通 常よりはるかに飲んで食べていたにもかかわらず。

(2001.9.12



 【第2話】 誰もが納得するワインを創るために

 1987年から1990年の4年間、私の人生の中でもっともたくさん仕事し、燃焼した時期だと思う。84ヘクタールの畠の改良、増設、醸造庫の改修、増築工事、樽熟成庫の改修、増築、城の改修、醸造方法の開拓、そしてそれ以上にシャトー・シトランのワインの概念創作など今振り返ってみるとき自分でも驚く。  

 シャトー・シトランは文献で判明する限りでは13世紀から存在している。ドニサン家が600年間シトラン公として君臨し、クローゼル家(現在マルゴーのトゥール・ド・モンス所有者)ミアイ家(クーフランの所有者、ポイヤックのコンテス・ド・ラランドの所有者もこの家系)を経て私に至った。18世紀当時にシトランの所有地は3000ヘクタール以上あった。(ブローニュの森の3倍)現在は405ヘクタールである。飛び地を含めると端から端まで約10KM。  

「このシャトーを蘇みがえさせる、過去の栄光以上のものを創ろう、一緒にやる気はないか」ということでその考えに納得したフェランデーズ、ガストンを雇った。  

 風の音しか聞こえない畠の中をひとりで歩いていると色々と思考していたこと、考えてもいなかったようなことが映画を見ているかのように頭の中に浮かんでくる。「自分の創ったワインを飲むのに10年も待っていられるか!10年後生きているかどうかもわからない」シトランのワインの概念はここから生まれてきた。  

「良質ボルドーワインは非常に長寿だけれど若いうちには美味しく飲めない。社会的、経済的条件も変わってきている、いまどき10年も20年もワインを自宅で保存できる人はいない。シトランは20年も30年も長持ちしなくてもいい、でも創ったときからたのしく飲め、熟成とともにさらに美味しくなっていく、そういうワインを創ろう。」ガストンは反対だった。「それでは伝統的ボルドーワインではなくなってしまう。」「じゃあ、10年の間、誰があんたに給料を払うの?」フェランデーズのこの質問であり解答はある意味で的確だった。荒廃したシトランを立て直すのには莫大な資金がかかるとともに早期の収益性を考えなければ株主は納得しないし、存続もあやぶかれる。私の畠の中での独り言は、シトランの経済的問題、存続できる道にもつながっていた。  

 1987年当時、ボルドーで「若いうちから美味しく飲めるワインを創る」という考え方はごく一部の生産者の下にはあった。しかし、シトランのようにメドック最大級の生産者レベルでは始めてだった。 「ただし、インチキはやらない、誰もが納得するようなワインを創っていく」各自、畠を歩き回ってきた後の会議はいつものように夜10時過ぎに終わった。

(2001.9.12)


 【第3話】“ジャップに死を”。その午後、私は猟銃と短銃を買いに行った 

「ジャップに死を」、シャトーシトラン醸造庫のベージュ色の壁の上に大きく黒ペンキでかかれた文字を見ながら、「この文章は単数だから宛先は自分か、」と思った。1993年の9月、収穫が始まって3日目の月曜日だった。  

 爆弾とかテロということを聞くといつも思い出す。その日、シャトー・シトラン醸造庫の変圧器に小形爆弾が仕掛けられていた。システムとしては幼稚なもので、火薬を詰めた瓶のまわりに多量 の新聞紙に火を付けたものだった。それでも爆発すれば400KVAの変圧器である。近くにいる人間は重傷、醸造庫は始動不可能だから収穫は中止、さらにはシャトー・シトランをとりまいている森への火災も考えられた。 ガストンが早期発見をした。彼はこの日、ブドウの熟成速度が例年より早いため、収穫者達に指示を出すべく通 常より早くから出勤していた。警察、消防署にすぐに連絡され、大事になる前に火災を押さえられた。収穫は1時間ほど開始が遅れたが、電気がすぐに使用できないため、収穫ブドウは建物内のあちらこちらに保存するようにした。さいわいにして手づみのブドウは機械づみとは違って新鮮度を長く保つことができる。  

 この頃シャトー・シトランの名声は国際的に確個たるものになっていた。在庫はなく、収穫するものはすべて売れていた。同時にその成功にたいして恨み、ジェラシーを持つ人々が増えてきた。国境を越えて、いつの世でも同じ事である。  

 それ以前には我々が改良し、作り上げたブドウ畑がその成果を出してくると供に「あの日本人は畠を日本に持ち帰るつもりだ」などというバカげた噂もでていた。確かに我々が作り上げた畠は反響を呼んだ(詳細は後日述べる)。また、同じ年の6月、シャトー・シトランの91年物ワイン瓶詰め時にボトリング用専門トラックがシトランの敷地内で破壊された。このトラックはすぐに交換されボトリング作業には支障がなかった。しかし、それが爆弾まで発展するとは想像もしていなかった。  
同日の午後は休み、私は猟銃と短銃を買いに行った。

注:この項はずっと後に機会があれば書くつもりでいました。ニューヨーク、ワシントンの悲劇がこの事件を繊細に思い起こさせました。 ニューヨーク、ワシントンで亡くなわれた方、その家族、友人達に心からの追卓を表します。

(2001.9.12)

 【第4話】 落ちるのが怖い


 雨がしとしとと降っている。「ここから落ちたら痛いだろうなァー」1987年の9月末、私はまさにブドウ収穫中の時速20KMで走るグラグラと四方八方にゆれる収穫用トラクターの上に登っていた。高さはゆうに4メートル以上あり、私が乗っている場所は運転席ではなく、雨で滑りやすくなっている車体の一番上である。フェランデーズも一緒だった。「こんなことは二度とやりませんからね。」

 畠は前日からの雨であちらこちらに水が溜まっており、そこに重いトラクターが走るときは通 常のランドクルーザーの揺れよりはるかに激しい。しかも高さ4メートル以上のところで捕まる把っ手もなく、早く降りたかったが、収穫用トラクターのコンテナーがいっぱいになるか、畠の端までたどり着かない限りトラクターは止めることができない。

 シャトー・シトランでは1982年頃から流行になり始めた収穫用トラクターを使用していた。収穫用トラクターは1200万円(その当時)という高額な機械ではあるが手摘み収穫に比べ費用は3分の1ですむことから、多くの生産者が使っている。シトランでは2台の収穫用トラクターを所有していたが1台はポンコツ状態で収穫中に故障したら大問題だ、という問題があった。

 フェランデーズは当初から機械摘みには反対だった。ガストンは自分の意見を(手摘みか機械摘み)持っていなかった。私自身は機械摘みというやりかた、システムを知らなかったため、シトランの今までの収穫方法を知らずにただ方法を変えてもあまり意味がない、ということで新車を購入することに決めた。同時に手摘みを行うことも決めた。

 収穫機トラクターのシステムはブドウの木の上に跨り(日本のブドウ畑とは違い高さは150CM以下である)、両側からプラスティック製うちわでかなりの速度でブドウの木を叩いていく事によってブドウの実を水車のように回る篭の中に驚くほどの早さで落としていくシステムである。しかし、叩いていくことによって腐り始めているブドウ、熟成していないブドウ、さらにはブドウの木の葉っぱまで引き散らし、篭の中に入れていく。これらの「収穫物」が醸造用タンクにそのまま入っていくということは誰の目から見ても良いワインが作れる条件ではないことが明らかである。
 揺れるトラクターの真上からそのすさまじい作業を見ながら、大きなエンジン音をとうしてフェランデーズに叫んだ。「この収穫機トラクターを買いたい人を探してくれ、今後はすべて手摘みにしよう。」
 私の最初の投資は失敗だった。

(2001.10.03)


 【第5話】 壊さない


 1987年6月から我々は畠の改良と供に醸造庫の改築、新築企画の討論を毎日のように繰り返していた。「現状の33000リッターのタンクは大きすぎて醸造時の温度管理が非常にしにくい、22000リッターに変えるべきだ。」「今の建物を壊すつもりはない。」フェランデーズの案に私は答えた。「あの建物は屋根かわらを取り替えれば充分に使えると思う、18世紀のすばらしい建築を壊してまでワインを創るつもりはない。現状のタンクは従来とは別 に違う使い方を考えてほしい。」

 この建物は平屋で幅13メートル長さ75メートル、高さが棟部分で7メートルの窓のない、なんの変哲のない18世紀に建てられた建築物である。醸造庫として使われている。石壁の厚さは60センチあり、防温設備がなくても夏は涼しく、冬も外気よりは温かい。屋根組みは私がそれまでに見たことのないほど大きな50センチもあるオーク材が使われている。窓がなく、いくつかの小さな天窓からだけ光が入ってくる。農業建築物ではあるが、その暗い空間の中に入っていくと教会とは違った意味での心の緊張、神秘的な印象を受ける。

 それまでに私はワイナリー建設専門のジェネコンと10箇所の有名ワイナリーを訪れた。自分を驚かせるものはなくすべてがハリウッドの装飾かあるいは超近代工場だった。「こんな場所を見ているとワインを飲む気持がなくなってくるね。」ジェネコンは私の言葉を理解できないようだった。いつかカルティエの社長が言っていた。「美に関してのデラックス(贅沢?)というのは一種のマジックだ。お尻を丸出しに見せることは美でもデラックスでもない。」ワインについても同じ事が言えると思う。最新の技術を使いながらも工業的ではない、一種の神秘性、個性を表すようなもの、それを創っていこう、それがシトラン再生の道だ、誰もが驚くようなものを創ってやる、視察しながら私はそう思った。

 収穫が始まり、ブドウが醸造庫に入ってきた。高さが4メートルある33000リッターのタンクの中にブドウがどんどん入れられていく。その様子をタンクの上から見ていくときに屋根組みの下の部分をまたぎながら頭を屋根組みの上部に10回ほどぶつけた。「やっぱり改築した方がいいでしょう。」私の側にいたフェランデーズに言った。「ヘルメットを10個ぐらい買ってこい。」「ヘルメットを着用して作業しているワイナリーはないですよ。」「シトランが初めてだよ、改革の第一歩だ。」 注:シトランのタンクをとりかえ、新規のタンクを入れるためには屋根を壊し、機能良くするためには(頭をぶつけないためには)現状の壁を2メートルほど高くし、新たに屋根組みを鉄骨で建設する事が必要でした。 ヘルメットは購入したが、私も含め着用する従業員はいませんでした。

(2001.10.03)

 【第6話】 驚き


収穫時のパート雇いとしてジタン(ジプシー)をよく雇う。住所不定の民族は季節毎に仕事のあるところを求め、ヨーロッパ中を旅行している。9月から10月にかけてはボルドーに何万人と集中してくる。盗難が最も増える時期でもある。

 シトランでもパート募集にあたり、ジタンを雇わざるを得なかった。フランスでは農業に関する労働基準法が厳しく、パートを雇う場合、作業場までの送り迎え、昼食の提供を義務づけられている。「従業員の送り迎えなどやっている会社はないよ」と言ってみたが、法律の前にはなんともできず、結果 的にジタンにした。

 ジタンは部族、グループ編成で移動しており、ボスがいろいろな農業の下請け作業を代表して受けている。会計上はパートを雇うのではなく一つの作業の下請け発注をすることになり、上記のパートを雇った場合の送り迎えの義務はワイナリー側には発生しない。

 ジタンは通常の人間が理解できない行動、考え方をする民族である。また、文明社会の中で生活しながらもっともその社会的恩恵を得ると供にもっとも野性的な民族でもある。

 前者についての例を挙げるならば、収入を得ていながらも所得申請は一切していない。同時に社会保険などは、徹底的に利用しているし、多数家族保護も受けている。20才の独身女性が子供を3人持っているのは珍しくない。時々、税務署、社会保険などの検査があっても、その時には代表である”ボス”は大概すでに死んでいる。従って検査はできない。その後に”ボス”に会うことはたびたびあったが。

 後者については私が畠の中を歩くときはなるべくバスケットシューズか天気によって長靴を使用するようにしている。時々はスーツ姿に革靴のこともあるが、長く歩いていると石が靴底を通 してくいこんできて痛くなる。しかし収穫作業をする彼等のほとんどは女、子供も含め裸足である。しかも走り回っている。篭担ぎ担当のある年齢不明の老人は畠の端に着くたびに(小休憩になる)腰にぶら下げた750CCボトルのワインを見事なまでいっきに飲み干していた。端につくたびに飲むということは誰かが途中で補給しているわけだがどこからワインを手に入れているのかわからない。「だれがあいつにワインを届けているんだ?すぐやめさせろ」という指示は完全に無視された。30度の炎天下のもと彼が1日の仕事中に飲んだワインの量 は何十リッターなのか?

 彼等との「驚き」のつきあいはその後10年間続いた。 注:ジタン民族についてはいろいろと書きたいことがあるのですが、人種差別 などと批判されることを考え、内容、表現を控えました。

(2001.10.03)


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 ●BWC代表 藤本恵一プロフィール ●藤本恵一のボルドーワイン奮闘記